納豆ごはんは世界を救う

第五人格とキャンプにハマる27歳の内省ブログ

「文化好き」を醸し出す一部の人に対して思うこと

あの、名前を出して自分が知ってることでマウンティングするあれ、なんなんだろうか。

私が芸大出身だからといって最近油画科の准教授になった人を持ちだされても、私は全く知らないし、なんでそれを知ってることが当たり前だと押し付けるのだろう?そして知らないことにあからさまに驚くフリをするのだろう?「知らないの?」から始まり、その人の漢字までわざわざ説明されて、「あーだめだピンと来てないやこれ」と態とらしく呆れらなければいけなかったんだろう?

 

知らないことにも責任がある。勿論。私が関わると決めた人達が美術関係者なら、知っておくべきことがあるのかもしれない、と思った。だからその場では恥ずかしくて、音楽学部だし、と言ってしまった。無知な自分が悪いと思った。

でも一日考えてみたけどそれってものすごく視野が狭くないか?

こっちにはこっちの世界があり、そっちにはそっちの世界がある。あなたが知っていることをわたしは知らないけど、あなたが知らないことをわたしが知っている可能性はある。それは当たり前のこと。それを踏まえて、なぜ知らないことに引け目を感じさせずに会話できないんだろうか?

 

大学からどうも私が苦手だなと思ってたことが、遂に昨日はっきりしたわけだ。薄々、建築や美術が好きという人の中には、知っているものや人の名前を出してマウンティングするようなことだけで会話を進める人が多いような気がしていた。私はそうなるともうヘェ〜よく知ってるね、ヘェ〜そうなんだ、の相槌しかできないのでつまらない。そこまではまぁ、許せる。好きなものについて語りたい人はいるから。

 

でも中でも引っかかるのは、自分の好きなもの、関係してるものにはやたら反応して、それを知らない人をさも「無知なもの」かのように取り上げる人々。そういう人が、今いる環境では顕著にいすぎる。というか、美術にしたって世界が狭過ぎて、それ以外を知らずにやっていけてしまっているのでそれしか正解がなくなってしまってる。よそから来たものには、乱暴に美術関係と紐付けて「それなら当然これ知ってるでしょ?」を押し付けてくる。

 

本当に好きなら、別に人と知識量を比べる必要は全くない。知っているアピールをする必要もない。好きなものなら、好きなだけ語ればいい。

 

でも語ることではなくてその人を知ってるか知らないかを問うことだけで、経験値も全く違う私を否定して上に立つ必要があるほど、あなたに蓄積された「好き」の経験は浅いものなのか?と思う。

 

そこまでして優位に立ちたい人ならばもはや、そんなこともなにもかもひっくるめて「私のため」に教えてくれているとでも言うだろうか。

 

なんで後からこんな胸糞悪い思いをしないといけないの?と、洗濯物干しながらむしゃくしゃしたので日記に書いてしまった。

 

いやほんとなんなの?!?!