納豆ごはんは世界を救う

第五人格とキャンプにハマる27歳の内省ブログ

予期せぬ出会いのようなものを、私は常に求めている

院試に落ちた。でもそのおかげで自分の中の興味の本当の部分が、いろいろなフィルターにかけられて落ちてきた気がする。私は、人が人生を変えてしまうくらい面白がる出来事に遭遇する場面をもっと見て、知りたい。

人生を左右するものって、仕事・恋人友人家族といった身の回りの人々がメインだと思うけど、例えば地域でのコミュニティだったり、好きな人やものだったりが自分の意識・無意識関係なく人生に影響を与えていることは大いにあると思う。それを突き詰めて考えてみたい。その人が心から興味を持つものによって、新しい人との出会いがあったり、人生が予期せぬ方向へと転換していく様子。

そう考えると、音まちはとっても稀有なものなんだと気付かされる。大学一年生で飛び込んだ現場だったから、そういう大人もいるものだと思っていたが、そうでもない。確かに流れ的に関わることになった人の中には「仕事しているのにボランティアでやっていてこんなに拘束されるのは無理」という人もいた。それは結局、その人の人生の軸からぶれず、人生の予期できる範囲にとどまったということだったと思う。けどそれも納得がいく。なぜならみんながみんな、何かにのめり込める環境・タイミングが一緒とは限らないから。

私自身、大学生の頃に音まちでいろいろな立場の人をまとめる?役割を担っていた時には見えていなかった。「社会人は仕事が一番大切なんだから」と言われたら、そりゃそうかと思っていた。それなのに平日夜のミーティングにきてもらって申し訳ないし、イベントの日には休日1日体力仕事みたいになって、そりゃ嫌になるよね、という見方をしていた。だって音まちはお金も出ないし、私たちがやってほしいことをやってもらっているし、と考えていたから。

ただ、社会に出てみて思ったのは、そんなに仕事が第一でもないってことだった。まあ私自身がそうさせてもらえる環境にいる、というのは大きいと思うが、やってみるとたいしたことないじゃん。と思った。社会人として働くことと、自分が興味あることに没頭することって全く別のベクトルなので、たとえば「働く」すなわち「その他プライベートは軽んじられて良い」とはならないなと。もちろん仕事大切、でも自分が興味を持って参加しているものなんだったら、勢いで一歩踏み出してしまったり行き過ぎてしまったりすることもあるよね、みたいなことを思う。ただ自分自身、2年しか会社員してないし、まだ社会でて3年目なので理解し切れていないことがまだまだ沢山あるんだと思う。社会人がなんたるかがわかっていなかった学生時代に、社会人ってすごいんだと思い込んでいたときのように、経験しなければわからないことがある。(それをフィードバックしてくれる人と共にいたいよね)

だからそれだけ、道をそれても自分の興味あることに突き進んだり、何かにハマってしまうというのはその人の柔軟性を表しているなと思う。

 

ただ、岡山芸術交流で出会った人の中には仕事でめっちゃ自分の興味を発揮しながら立場をうまく「利用」して評価されている人もいた。よく働く、仕事ができる人という感じ。しかもそういう人に限って、プライベートでなんもせん、やりたいこととかとくにない、という感じで驚いた。一緒に働くと見えてくるその人の「面白がり方」は、きっと仕事でない部分でその人と出会った時にはわからないものなんだろう。

 

何が言いたいか、というと私はまだまだ自分の突き進む道が明確になってはいないけれども、やりたいことの輪郭はぼんやりと見えてきていると思う。そのために、事例は何だって良くて岡山芸術交流だって、音まちだって、それぞれに面白がる人は存在していた。その面白がる対象・面白がり方があまりに多様で私には整理できていないが、もっといろいろな人と良きせぬ出会いをしながら輪郭をはっきりさせていきたいなあと思う。

 

(シャワー浴びながら考えていたことを急いでメモしてみた)