納豆ごはんは世界を救う

第五人格とキャンプにハマる27歳の内省ブログ

写真が気軽に綺麗に撮れる時代、それを何に使えば良いかわからない人々

というのは私のことですが。

 

 

最近、彼氏に誕生日プレゼントとして一眼レフをいただきまして、(ええ、ええ、甘やかされているのは重々承知の助です。本当に幸せ者です。)この間の北欧旅行にももちろん持って行った。

 

そして合計、800枚近くだろうか?

街並み、食事、同行者(母)、空、海、景色、鳥、とりあえず記憶に残したいものを綺麗な角度で綺麗なものだけ切り取って、綺麗な写真を撮った。

それはもう、自分で見返してて惚れ惚れするくらい綺麗に撮れた。

 

 

 

一眼レフってすごい。

 

遠くがぼけて、近くのものにピントが合う、それだけで「っぽい」写真が撮れる!!!!

 

もちろん、多少水平を気にしたり構図を考えたりした。

 

だけどそんなの、ただの微調整

 

簡単に、シャッターを押すだけで、惚れ惚れしてインスタに載せたくなる写真が撮れるんだ!!!!

 

 

 

 

 

一眼に限らず、iPhoneでも今やとても綺麗な写真が撮れる。

 

一眼よりも簡単に、手軽に。

 

 


だけど同時に違和感も感じていて。

 

街並みを撮影しようとして例えば工事中のネットが掛けられた建物は写さないようにするだとか、青空を撮影しようとしてグレーの雨雲は写さないようにするだとか。

 

そういうのってなんか偽りが混じる気がする。

いかにもインスタグラム、他にもSNSのために、他人に見られることを想定して撮影する。

それを当たり前のようにみんながする。

 

他人に見られることを想定するのは、昔の写真ももちろん一緒で、

 

だけどそんな不特定多数の大勢に見られる想定をしていたのはカメラマンくらいかと思う。

 

 

それはそれでいいし、昔から写真ってそういうものじゃんっていう話なんだが、何で今、誰もかれもがSNSのために写真を撮る行為に対して私は違和感を感じずにいられないんだろう。

 

手軽さ、綺麗な、って言葉にどこか引っかかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

だけどそんな自分は、結局800枚も撮影した綺麗な写真たちを、せいぜいiPhoneの画面で見るくらいのことにしか使えない。

 

SNSにもあげたいけど、友達からしたらウザイかなとか思うし。

それ専用のアカウントを作るのは面倒くさいし。

 

 

800枚もの綺麗な写真たちを、どう扱ってあげるのが正解なのか、考えあぐねてる。

 

 

 

 

 

 

あとはSNSからいかに個人情報を読み取れるかっていう探偵の話をテレビで見てから、フォロワーの多いSNSに写真をむやみやたらにあげるのが怖くなった。

 

 

一旦ネット上に上げられた写真はもう完全に削除することができない、って考えると、もう何の写真だってあげたくない。

 

公共の場にプライベートの写真を捨てていってるようなものだ。

 

ある炎上研究者みたいな人は、炎上対策として

・インターネットで発言するときは「家の玄関に貼っても良いこと」までにしなさい

みたいなことを言ってた。

 

 

まぁ、なるほどな、そうなんだな、2ちゃんとかならまだしもツイッターとかは不特定多数に見られる意識が欠如しがちだからやりかねないな、怖いなと思った。

鍵付きかそうでないかなんてきっといざとなったら関係ないことなんでしょう。芸能人のSNSのアカウントに、ヒマな一般人がパスワードを当てて入り込めるんだから。

 

 

 

 

 

とか何とか言いながら、今日もとても充実した1日で、幸せで恵まれた状況にあったことを、私はインスタで報告した。

 

書いてて今更気づくけど、このブログだってそうだ。

 

なんで私たちはネット上で報告せずにいられないんだろう。

 

SNSのない時代、どこでその欲求は満たされてたんだろう??そもそもなかったのかな。

 

 

 

 

怖い怖い、って思いながらやっぱり他人の顔とかも鍵付きアカウントで投稿しちゃう自分の矛盾から生まれるモヤモヤを、ここで吐き出してみた。

 

 

何が言いたいかっていうと、

撮った写真って誰に見せるのが正解なんだろ?!?!ってことかな…