納豆ごはんは世界を救う

第五人格とキャンプにハマる27歳の内省ブログ

時間は経過するもんだな

あっという間に、仕事はあと2日である。


今日は私の敵わない人に映画に誘ってもらって、仕事終わりに観てきた。

岡山メルパという映画館。
大きなイオンモールの中に大きな109シネマズがある岡山で、私は家から徒歩10分の場所にあるこの映画館の存在を最近まで知らなかった。





最後に行くことができて本当に良かった。

私の中でこの映画館体験がかなり昔のエモい思い出を蘇らせたので書いておきたいな、と思った。

映画館ってどんなに田舎で閉鎖的な場所でも、踏み入れたら非日常で社交(というのだろうか?)の仲間入りができる場所だと、岡山に来て思う。特にシネコンなんかは誰でも来るからまぁ置いておいて、劇場とかいう映画館、本当に映画館が好きなひと、映画が好きなひとが集まる感じがして良い。話は通じてるようで変わるけど、やっぱり意思疎通ができる感じのするひとといると孤独を感じづらいけど、できないひとの中だとかなり閉鎖的で自分だけが孤立しているような感覚になるな、と最近思う。良いとか悪いとかではないし、でも生きてる世界が違う、と思うと急に距離を感じたり、見えない壁が現れ出す。居心地の良い場所にいるだけでは成長も得るものもないと思うけど、多少はそういう場所が必要だよな、と。かなり話が脱線した。なんだか、そういう意味で地方の映画館はそこに閉塞感を感じるひとにとってかなり大切な場所になりうるんだよな、と思う。

私は、なぜか小さい頃行った映画館の記憶がかなり強く残っている。小学校にあがるまえくらいだと思う。「藤沢オデヲン座」といって、2007年には閉館していたらしい。(逆に中1まであったのか。かなり昔のようだ。いや、中1はかなり昔なのか。まぁいいや。)

覚えているのは、ミュウツーの逆襲と、千と千尋の神隠し。あとはピカチュウシリーズもみていたかな。(ピチュウとかライチュウとか?のパンフがある)

何よりも鮮明で強烈だったのは、なぜか立ち見で見ていた気がすること。コの字を左90°回転させた手すりの地面に垂直な部分につかまりながら、母と姉の横でみていたような気がする。今の映画館で立ち見とかそんなことあるか?!と思うので、真偽の程は母に確かめたい(と思いつついつも忘れる)。

あとは建物に入ってからすぐにシアターのドアがあるつくりとか、ちょっと赤絨毯で高級感があったこととか、遅れて急いで入る時のドアの様子とか、なぜか断片的にあの映画館のことだけは鮮明に記憶に残ってる部分があって。単純に不思議、なぜその映画館のことだけは残ってるのかなと。

今その映画館を調べて、写真とかみてみるとシネコンとは全く違う作りで、かなり高揚感もあって良い空間だった。
なぜなくなったのか。

この前エモーショナルな日記に書いたが、近くの取り壊しが決まっている市場にしても、便利なものが壊すものの代償はあまりに大きい。なので便利で、大きいことが良いわけではない。
それとこれとが共存したらよいのに。

岡山はその点、いみじくも共存していると思う。
それが面白い。いつなくなるかという危うさもはらんでいるけど。
今、きっとSNSなんかを通じてその希少性に気が付いた人々がそっちに流れたらよいのかな。
ここめっちゃいい、なくならないで~~と思う気持ちは切ない。
かといって大して興味がないうちになくなっていて後からその価値に気づくのはもっと悲しい。なくならないでほしい。バンバンに人を集めて安心させてほしい。けどそうなったらそうなったで、きっとなくなることを悲しむ人々は望む状態にならないかもしれないが、小さいころ母と姉と映画を見た場所はもう10年以上前になくなっていた、というのはあまりにも切ない。

さいころに経験したことって貴重だと思う。
いまから、じゃあ全国の良い映画館がなくならないうちにと思って巡ったとしても、あの時に経験したほどの思い出にはならないだろう。
時がたってふと、思い出すくらいの感覚が一番いい
そのために私は、子どもが出来たらなるべくシネコンのような大きな、なくなる心配のない場所よりも、
ちょっと不便かもしれないけど大きくなっていかなくなるかもしれないような場所へつれていきたいと思った、
そして、そこが、もしかしたらよりどころになるかもしれない、
広島の映画館で映画にはまり、上京してずっと映画に携わる夢を追いかける私の大学の同期のように。




※ちなみに映画、なんとレディースデーで19:45からのまぁまぁ最近公開されたものにもかかわらず私たち2人しかいなくてびっくりした話と、観た映画についての感想はまた今度にしようと思います。前置きが長くなり過ぎて力尽きた。