納豆ごはんは世界を救う

第五人格とキャンプにハマる27歳の内省ブログ

アートの「作品」について考える

アート作品について考える

川村記念美術館「ふたつのまどか」展インタビュー映像を見ていてふと思った。

 

作家の意図を聞くと、理解はできる

(特にこの展示の作家の方たちは分かりやすい言葉で話をしてくれている)

 

それと同時に存在感、そのもの自身から得られる感覚がある。多くを語らないものの方がその感覚を得られる。パッと見てわかるものだと消化され、後に残らない。

アートってなんだとずっと考えて正解は出ないままだけど、考えることこそが向き合うことなんだと思った。

 

大学二年生の時、アーティストの先生の授業を受けた。視覚表現という講義名で、過去の写真や映像を見て表現方法を学んで自分でも制作をしてみる授業だった。夏の集中講義で実際にいくつか作品を制作した。私は当時美術に対して苦手意識があってよくわからないもの、とちゃんと向き合わなかったのだけど、その集中講義で学校の中を歩きまわりその場にあるもので作品をつくって、先生やみんなの前で意図を説明した。先生からは、その意図はよくわからないけどこれは存在としてはいい、というようなことを言われた。その言葉と、あの時自分が作ったものはよく覚えている。

 

普段人が通らない場所の、一番上の階の窓をビニール紐を折り返して塞ごうとした。でもそれは結局うまくいかなくて、風で紐は取れちゃうし、紐は足りなくて途中までしか塞げなかった。思っていた見た目にもならなかったけど、紐がたわみ、とれかけているその状態を、作品としては良い、と言ってくれた先生の目には何かその時の私とは違うものが見えてたのかもなあとか思った。

 

作家の意図が全てでもなく、作品はそこにあって、その場所でどう配置され、どんな光を得て可視化されるか、というところにも、文脈が生まれるんだと思った。

 

https://www.youtube.com/watch?v=o5LPu6IkCjc

「作家として表現できるのは自分の幅、範囲内でしか物を見ることができていない。自分の中にとどまるものは情報でなく経験・記憶。それをもとに作品を作り続けることしかない。」