納豆ごはんは世界を救う

第五人格とキャンプにハマる27歳の内省ブログ

2021/01/13(水)

朝からえんとつ町のプペルの記事を読みその人の記事を読み漁ってしまった。

https://note.com/kouichi1997/n/n84ea35c59ead

なんかわかる、すごい気持ちわかる…けどそれだけじゃない複雑な感情が芽生えてしまったため。そしてその中には少なからずここまできてなお自分とは違うとホッとする自分がいて萎えたりもした。

わかるのは、自分は他の人と違うと思い込んでいて、何者かになれると思い込んでいるところ。そして大きなものに乗っかれば自分もすごくなると思ってるところ。あと自分を曝け出すあまりに上手くない表現をしてしまうところ。見せ方を考えられてないところ………
わからないのは、自分自身の興味が全く見えないところ。

でもわかるんだよ、カリスマ性のある人に感化されて自分も何かやろう!!!!と思って行動するのは全く間違いではないし、昨日見た映画でもお母さんが「無駄なことはない」って言ってたし、だからそれを自分がどう受け止めてどう活かすか、それでしかないんだろう。

でも私もオーストラリアにいた時、生きてるだけでお金を消費していくだけの状況でかなり視野が狭くなって追い込まれていた。
なにが問題かって、時間だけはたっぷりあるということなのよね。自分の行動や考えを、頭の中で正当化したりダメ出ししたり、メタで見ようとして謎に理論武装だけして頭でっかちになってそれに雁字搦めになり行動が狭められていく、というか。
自分がダメだからこういう状況なんだ、という感覚だけ、言語化される前に体に染み付いている感じで、それを補うために自分はすごい、できる、と頭で考えて行動しなきゃ感に駆り立てられるけど、それは所詮すごいと思われるためだけなので表層的というか。

うーん、上手く言語化できない。

だから、追い込まれている状況ではそれをどう打破するのか道が全く見えないんだろうなぁ、と想像した。
だからこそTwitterでその人についてあーだこーだ言っているのを見てもなんかモヤモヤが残り、自分で書いてみようと思ったんだ。

自分とは違うと思ったのは、自分もあのままオーストラリアにいたときの感覚から脱出できなければどこぞの宗教にでも入っていたのではなかろうかと思うので、安心したんだよね。
私の場合は戻ったら現実を言葉巧みに見せてくれる教授がいて、誰よりもカリスマ性抜群の母親がいて、なんだかんだで就職したらしたで周りにすごい人が沢山いて、と目の前に次々に壁のようなものがあったのでそこから逃げたり露頭に迷ったりしなくてすんだ。
だから、こういう状況のときに必要なのは叱咤激励してくれる他人よりも自分にとっての壁とそれをクリアする達成感?…いやなんか違うか。私にも偉そうに言えることではないのでやめとこ。

そもそも私はこういう薄っぺらい人が苦手、というのもあるかもしれない。
あと、カギカッコで当時の自分の心境が語られる系のブログの書き方は嫌い。
(ついでにコロナなのにオフ会オフ会いって見知らぬ人と集まってるのはどうなんだ?!)